Masukイアンの覇気のなさは周囲が心配するレベルだった。
だからと言って、仕事が疎かになっている訳でもなく、書類は凄いスピードで捲られ、各部署から預かった領収書を元に作られた出納帳の記載は正しい。むしろ、陸軍第二部隊から提出された領収書の中に、不明瞭なものがあると気付いた程である。 手は動いているのに、目は明後日の方向を向いていた。手元を一切見ていないのに計算に狂いがない事にイアンの隣りに座るシェルフは恐怖を覚え、小鹿のように震えた。 国の英雄、国王の腹違いの弟、王位継承権はまだ放棄していない、そんな男が何を思ったのか、国王の前で「事務官になりたいです」とか言ったお陰で、英雄が国軍経理課へ異動してきた。 同じ軍人でも、事務官は体育会系というより文化系だ。彼が陸軍兵士だった頃の姿を知っていた為、体育会系の筋肉男が経理課へやってくる事に、事務官達は恐れ戦いた。 ──が、イアンが初出勤の日に全員へ挨拶をする姿を見て、思ったのだ。『ふつうに、イケメン好青年じゃ
「ずっと約束をし続けていたら、灰色の日々なんてレディの元に訪れません」「わ、私と次の約束もして下さるんですか……?」 返事はなかったが、ゆっくりと瞼が閉じられた。イエス、って意味ね。 彼は、私が不憫だと思ってくれたんだわ。お姉様と瓜二つなのに性格は似ていなくて地味で、お父様の命令に逆らえなくて、何処の知らぬ男と結婚をいずれさせられる令嬢。そんな私と約束をしてくれる、なんて彼は本当に聖人ね。(恋人になりたい、とかそんなレベルが高いこと言わないわ。お茶友達になれたら最高よね。彼の瞳と同じ色の紅茶を二人で飲むの)「それなら、お名前を呼び合いましょう……!」 お互い自己紹介をしていないことに今更気付いたのは、曲が終盤に差し掛かった頃だった。「私はサラ・ロアソルです」「俺は──・──です。二人して名乗るのを忘れてましたね」 彼の口角に笑窪が出来た。(この笑顔は心の底から笑った時の顔ね)「──様は」と私は彼の苗字で呼んだ。名前は恋人でもないから、呼ぶにはおこがましいと思ったのだ。そうしたら彼は首を横に振った。「俺の階級はレディ・ロアソルよりもうんと下です。様はつけなくても良いです」「よ、呼び捨てですか!? そ、そんなことできません!」 彼は私より年上で命の恩人、しかも初恋の人だ。そんな男性を呼び捨てなんて出来る訳がない。「俺はただの──なんです。気になさらず」「気にしますわ! なんてお呼びしたら? 愛称とか……?」 恋人同士もないのに愛称で呼び合うのはおかしな話だ。 苗字の呼び捨てなんて失礼だし……。「お仕事での呼び名とか……?」 それもおかしい。公休日に勤務時での愛称で呼ばれたりしたら、勤務先に居ると思って安らげない。 眉間に皺を寄せてうんうん悩んでいたら、クックっと喉が鳴るような声が聞こえて、私と踊る彼を見た。 笑窪を浮かべながら、
「はい……ぜひ見たいです」 彼のように、穏やかな空気に包まれて咲いている桃色のジャスミンはきっと可愛らしく咲いているのだろう……その景色をハンモックに座る私と彼で眺める情景が頭に思い浮かんだ。 そんな幸せな情景を描いてから、ハタッと気が付いた。(いやだわ、私……)「ぜ、ぜひ見たい、だなんて、ほ、本気にしてしまって……」 社交辞令で彼は「見せたいです」と言っただけだ。それを「見たい」だなんて答えてしまって、彼を困らせてしまう。現に苦笑めいた表情が浮かんでいた。「わたしの返事は、本気にされないで大丈夫ですからね。困らせる気はなくて」「社交辞令じゃない、と言ったら見に来てくださいますか?」 真っ直ぐに見つめる瞳は真剣そのものだった。 近くで温かくて穏やかな琥珀色の瞳を見たいと思っていた。夢は今日叶ったけれど、それ以外の目も見ることが出来るなんて夢にも思っていなかった。「す、すみません……女性を一人暮らしの男の家に誘うなんて、考えてみたら良い事ではありませんよね……」「えっ、そうなんですか?」「えっ」「えっ?」「あ、あぁ……」 彼の困惑した表情が濃くなって、私はどう反応したら良いか分からなくなって眉を下げた。「社交辞令ではないなら、本当に行っても構いません……?」「レディに見せたい、と思ったのは本当のことなので……」 まさか、本気で花を見せたい、と言ってくれたようだ。どこか照れ笑いを浮かべる彼を見て、私は短い時間で、彼の笑顔の違いが少しだけ分かるようになっていた。「嬉しいです。わたし、今夜のラストダンスを思い出にして生きて行こうと思っていたので」「どこか遠くへ行かれるんですか?」 腰に巻かれた腕に力が込められたような気がした──けど、
大広間の中心にはお姉様と王太子殿下が居た。流石にあの中に入る度胸はなくて、私たちは目立たない隅の方で優美な音楽に沿ってステップを組んだ。 腰に回された腕は優しく、それでも力強さがある。包み込まれるように私より大きな身体は見た目とは違って本当に男の人なんだ、と思った。 こうやって近くでダンスをしているお陰で、彼と少しは喋れるようになった。「お姉様のドレスなので、着慣れてなくて足が見えないので……もしかしたら踏んでしまうかも……」 そんなことを心配してしまうと、彼がハハッと楽しそうに笑った。「レディより先に俺が踏んでしまうかもしれません。緊張して」 嘘よ。(だって、凄く上手だし、さっき踊っていた令嬢とだって慣れたように踊っていたわ) 女性と踊っていたシーンを思い出して、チクりと胸が痛んだ。私はその情景を追い出すように頭を振った。「そういえば」 気付いた事を私は彼に言った。「『俺』って仰るんですね」「え?」「勝手なイメージで『私』って自分の事を呼ぶのかと思っていました」 朗らかな見た目だから勝手にそう思っていた。「私も使いますよ。俺は……プライベートで、と言いますか……素ですね」「素ですか」 素の話し方が出てしまう程、彼は緊張しているらしい。私はその事にハッとしてから「分かります」と同意した。「緊張されますよね……他国の方もいらっしゃいますし、素が出てしまうのも納得ですね」「そういうわけでは……」 彼は、何か言いたげなのに、困ったように私から目を逸らした。何か可笑しなことを言ってしまったかしら……。「大丈夫ですか? 何か私、気に障ってしまうこと言ったのでは……」「いいえ! そういうことは決してないです。レディは何も言っ
お世辞だ。 お世辞にまで嬉しくなってしまう私は「お冗談がお上手ですね」「みなさんにも言っているんでしょ?」と返してしまう──可愛くない。なんて可愛くないんだ、と自分でも思う。(ほら、困ったようにしてるわ) 眦を下げた彼の唇がゆっくりと開く──その前に、流れる音楽の曲調が変わった。しっとりと奏でられる音楽は舞踏会の終わりを告げていた。 自然と二人して宙を見上げる。これで私たちが会うのは最後なのだと思うと切なくなって私は、見えない筈の音色を憎らしく思って天井を見上げたのだけど……彼はどうなのだろう。やっと気まずい雰囲気から脱出できると思っているのだろうか。穏やかな彼の横顔からはそういった感情は読み取れない。常に笑みを携える、というのはもしや本心を隠すためでは……という考えが脳裏に浮かんだ。(わたしは彼の素顔を見れるほどの仲ではないもの) そうだけど。 彼の微笑みが好きだと思ったのは事実だ。 その笑顔をこれで見納めだというなら、舞踏会が終わるまで近くで見ていたい。「あ、あの!」 彼の顔が私へ向いた。「一緒にラストダンスを踊ってくださいませんか!?」 バッ、と右手を彼に差し伸べた。私の手と顔を交互に見る彼の様子を見て背中に変な汗をかく。 最後のダンスまでは誰とでも踊れる。そしてラストダンスだけは、自分の相手と踊るのだ。婚約者か恋人同士、相手がいなければ意中の人──特別な人と踊る。きっと、お姉様は王太子と踊り、お兄様はお義姉様と手を取って踊るはずだ。 意中の人、と言っても私と彼は二年振りに顔を合わせただけで会話らしい会話なんてしていない。私にとって意中の人だけど、彼にとったら違う。きっと、このまま別れたら人の記憶に残りにくい私の事なんて、彼は忘れてしまうだろう。でも、私はずっと覚えていたい。人見知りの私にはハードルが高いから、いずれはお父様の決めた人と結婚すると思う。もし、その人が私にとって最愛になれないなら、初恋の人と踊ったラストダンスの思い出を今日残したい。その思い出と生きて行きたい。「レディ
※「あ、あの」 緊張して声が掠れてしまう。そんな声でも気付いてくれたようで、振り向いて私に優しく微笑んでくれた。たったそれだけで、心臓がドクドク煩くてかなわない。 声をかけたものの、何を喋って良いか分からず、彼の前で私は彫刻のように動けなかった。(ど、どうしましょう……) お姉様がわざわざ彼をこの場所に留めてくれたのに。『私とサラの区別がついたようよ。彼は、貴女を助けた日のことをちゃんと覚えているようね』 と小声で耳元に囁いて教えてくれた。それを聞いて、二年前の事を覚えてくれているんだと思って飛び上がる程嬉しかったけど、本人を前にすると声を発せない。 こんな自分が情けないと思って、スカートを握り締めた。「レディ、お怪我は大丈夫でしたか?」 スカートを握り締めたまま顔を上げると、彼は緊張した心が解れるような優しい笑みを浮かべていた。「あ、あれから医者にちゃんと見せたんです。そうしたら骨は折れていなかったけど、熱をもっていて」「強く掴まれたからでしょうね」 まるで、自分のように痛そうに表情を歪めた彼を見てドキッとした。微笑んだ表情以外でもときめいてしまうなんて、私どうかしているわ……。「は、はい。捻挫を起こしてしまっていて、でも安静にしていたらすぐに治りました」「良かった。レディのことをずっと心配していたんです」 と安堵する彼の、なんと朗らかなことか──……。「あれから、占いにはいかれたんですか?」「えっ? 占いですか? 結局は行きませんでした」「怖い思いをされましたからね」 私は曖昧に笑って頷いた。 魔女の恋占いへ行かなかった理由は、あの時恋を知ったから。 その恋の行く末を占いに行かなかった理由は、初恋が実るか訊くのが怖かったから、だ。(初恋は実らない、っていうジンクスがあるから……)「どうされました?」
何故だか楽しそうな背中に私は声を掛けられなかった。 ※「──様ですよね?」 銀髪の男の背中に声を掛けると、その人物がゆっくりと振り向いた。穏やかな琥珀色の瞳が見開いていく様を私──サラに扮したジェシカはじっと見つめてから勢いをつけてガバッと頭を下げる。「二年前、森の中で私を助けて下さってありがとうございました! あの時お礼を言えなくて……言うのが遅くなってしまいました……」 男は何も言葉を発さず、ただ戸惑っている様子を肌で感じる。(女がこうやって頭下げているんだから、それをそのままにするわけ?) 見た目通りに柔な男だった。やっぱりサラには似合わない。私の半身に似合う男は、何もかも強い男でなきゃ。 俯いたままチラッと顔を横に向けると、王太子妃に間違われて様々な人達に声を掛けられているサラが視界の端に映った。(そろそろ戻らないと……) 頭を上げたと同時に、やっと声を掛けられる。それも謝罪だった。「王太子妃……申し訳ございません、わたくしは貴女を助けた記憶がないのですが……別の人間と間違えておりませんか?」「間違えておりませんわ」 内心ドキドキしているのを表情に出さないように澄まして答えると、男は困ったように首を傾けた。「それに、わたくしは王太子妃ではありません」「……それは、無理があるかと……」 ますます困った、というように眉が下がっていく。それを見て、カマをかけられているわけではないと悟った。「……どうして、別人だと分かったの?」「王太子妃が仰ったお話の方は……王太子妃よりも瞳の色は薄く、栗色の癖毛は自然のように見えましたから」「盗み聞きしてたの?」「盗み聞き?」 目をパチクリと瞬きした男を見て、私は力が抜